キューポラの街 川口の錦山閣で焼肉を
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川口と焼肉・在日の歴史
吉永小百合主演の「キューポラのある街」(昭和37年作品)は昭和30年代の川口を描いた名作映画だ。北朝鮮への帰国船のシーン、猫も杓子もなぜ在日の人々が北へ返されねばならなかったのか、背景を考えると怒りと悲しみでやるせない気持ちになる。鋳物工場の煙突、キューポラの街、川口の鋳物の歴史は江戸時代の梵鐘作りから始まり、鍋釜、鉄瓶などの日用品へ移行、現在は産業機械となって生き残る。昭和の最盛期には600社以上あった会社が平成には100社以下に減り、工場跡地はバブル時代の地上げで高層マンションになった。「なぜ川口が在日の焼肉の街なのか」すこしづつ説明しよう。戦争中に鋳物工場への強制連行もなかったわけではない。しかし、植民地時代の半島の政治的しめつけ、貧困から、出稼ぎや、日本への進学希望といった、苦渋の選択をして来日した在日も多い。そして、もう一つ。韓国の歴史教科書からはいまだ抹殺されている事実、1948年4月済州島島民の武装蜂起による韓国政府の激しい武力鎮圧(4・3島民虐殺事件)のなか島を捨て日本に命からがら逃げて定住した人もいる。川口沿線周辺に済州島出身の人々が多いのもこのせいだ。そして在日の人々が生活の糧をもとめて始めた食べ物商売の一つが焼肉屋だった。
2) 川口焼肉、発祥の父
川口で戦後まもないころから始めて47年間営業している、“川口焼肉・発祥の父“と呼ぶにふさわしい、川口一の老舗「錦山閣」のご主人(二代目、ユン・ソクトさん)が特別に語ってくださった。(三代目、ユン・ヨニルさんにも同席していただく。四代目はベビーケージでお昼寝中。) |
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1.お店はどのぐらい古いのでしょうか?
だいたい70年前かな、先代のおじいさんが(ユン・イムジュンさん)19歳のとき、日本にくればいい大学に進学できるからと忠清南道の公州からやってきたのがそもそもの始まり。親元はそこそこ裕福だったけれども、それでも仕送りだけにたよるわけにはいかないし、川口に住みついた先代は生活費をかせぐために、なんでもやったようだよ。当時は馬方をしながら、鋳物の材料を運んだりしているうちに、鋳物屋の社長に気に入られてかわいがってもらって、鋳物の材料屋をやったりしていたね。韓国でいったん結婚して、おばあさん(イム・スンレさん)を残し日本で働いていたら、結婚三年後に、おばあさんさんが日本に追いかけてきた。やがて戦争も激しくなり、一家はおじいさんを残して茨城へ疎開して、窮したおばあさんがマッコリを作って売り、わたしはクギをひろってきてクギのばしをやって糊口をしのいだよ。川口にもどってきてからも兄弟は多いし、3畳1間の間借りにひしめきあって、本当に貧乏したなぁ。借りていた下宿の一階の部分を日本の人から借りてそこで焼肉屋を始めたわけ。47年前、おばあさんが始めたんだよ。朝鮮の焼肉料理としては川口初だった。当時は焼肉って料理がすごくめずらしいもので、肉を焼くアミも鋳物の街・川口ならではの発明、特注品だったのさ。あとで埼玉地域の同胞の焼肉屋がアミをわけてくれっていってきて、ずいぶん都合してあげたなぁ。今思えばねぇ、特許とっておけば大金持ちでよかったんだけどな。(苦笑)
鋳物の街・川口がなぜ焼肉と結びつくのか初めて知る。「焼肉のアミ」がキーワードだったのだ。 |
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2. 全盛期のようすはどうでしたか?
川口はオートレースがあるでしょう。その流れのお客が、もうそりゃすごかったの。昭和30年時代はオープン前なのに、お店のシャッターあけたら、お客がすでにならんでて、わっと押し寄せて、押すな押すなで、30坪のお店はてんてこまい。“お酉さま”のときもすごくて、結局お店は夜中の3時、4時、明け方まで営業“させられ”た。ホールと厨房が10人ずついたけど、おばあさんは厨房で忙しすぎてトイレにもいけない。しまいには、がまんできないから厨房の桶にビニールをしいてそこで用をたした。わたしも、飲まず食わずでホールにいたし、お客には「遅い、まだか」と怒られて、「あいすみません」といいつつ、「こんちくしょう、なんでこんなにくるんだよ」と思った。空腹のあまり厨房のスタッフとケンカごしになるし、忙しかったなぁ。戦争みたいだったもの。もうそんな時代はこないでしょうけどね。47年前は、ロースやカルビは200円、ライスは100円。それで、一日の売り上げは40万円もあったよ。 |
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3. 最近の景気はどうでしょう?
うちから巣立っていった焼肉屋も少なくないよ。「安楽亭」も実は、うちの店の出身なんだよ。「安楽亭」の会長のおばあさんが、うちのおばあさんのところで修行していたの。最初は西川口の駅前の小さい店から始まった。息子さんの代で商社が参入してお店がチェーン化し、支店がどんどん増えた。最近はどこも景気が悪いのでお店の規模や内容を再考せざるをえないようだけど。バブルがはじけてどこも大変。それでもうちはいいほうかな。(今では)自分の土地で自分のお店だから。でも駅前の開発工事で3年も営業妨害されたっけなぁ。(苦笑)在日の古参の焼肉店はしっかりしないと、生き残れない難しい状況だね。うちは三代目の味付けがお客さんにうけがよくて、肉のアイディアメニューをどんどん考えてくれる。よくやってくれています。肉の仕入先は、いろいろ相談しながら他社と競争させたりしてね。どこの地方の肉とかにはあえてこだわらないけど、安かろう、悪かろうの変なものをもってくると「とっとと、もって帰れ!!」ってはっきりいいます。
川口焼肉の名店とは
埼玉のトレンド雑誌に紹介されている焼肉屋ですが、川口周辺地域では20軒程度。
しかし、営利がからんだ、いいかげんな選択をしているので本当においしいお店が全然載っていないのが現状。@肉質のよさ、Aタレのおいしさ、B肉のメニューの豊富さ、Cサイドメニューの充実、D他店と違う売りがあるのか、EIT化、多角化これらを総合的にそなえ、また努力しているか、この6つの点で実際のところ、繁盛店と生き残り店が決まってくると思う。その点「錦山閣」さんは
@ 仕入先を競合させ、かけあいのなかから引いた上質な肉を確保。
A 内臓に合う辛味噌モミダレの開発。肉ごとのおいしさを引き出す、ミソダレなどの各種のつけタレの完備。
B めずらしい部分の肉(牛テールスライス、牛のアゴ、豚のほっぺた肉、ハツモト、ヤンなど)で他店と差別化。*ヤンは一頭で2人前しかとれない。
D 広告などいっさいしない、昔ながらのファミリー気質がうけて遠隔地(千葉、越谷、大宮など)からのお客や、通って40年という長いファンをもっている。
という特徴があり繁盛しているようだ。 |
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4. 若い世代への苦言
韓国・朝鮮料理学校を出た、2、3軒のお店でちょっと修行をしたというだけで開店する店があるけど、まぁ、長くは続かないね。焼肉とか辛い韓国料理ブームの火付け役は日本の商社がやっていることで、勝手に流行をつくってお祭り気質の日本人に提供しているだけなんじゃないかなぁ。2002年のワールドカップに向けて焼肉、韓国関係の飲食店は益々増えるけれど、中途半端なお店は命が短いね。値段も高くとりすぎだし。
まぁ、同じに見られたくないというプライドもあるし、妙な正義感、同情心をもたないようにして、新しいお店にはわざと感知しないことにしています。(笑)
住宅街も多い川口郊外の倉庫のような大型焼肉店ですが、お肉の値段は一皿390円ぐらいに絞っています。それで、安いなあと思って家族づれでいくのですが、実はこれにはからくりがあって、一皿の量が少ないから、結局お腹一杯たべると普通の焼肉屋さん値段になってしまう。これでは頭のいいお客は1回ぽっきりで二度とこなくなる。こういったお店はどうやってお客さんを引き止めておくのか今後の課題。小さくても、古くても、もっとフレンドリーで味のいい“値段は同じ”お店にいきたくなりますからね。
例えば一人前が100gとします。でも二人前は200gじゃない。量が掛け算にはならないの。かならずお客さんが気付かない程度に少なくする。160g〜180gかな。ひどいと思うでしょう。そうゆうやり方をするお店は結構多いですね。三人前だともっと量が減りますよ。
またね、お金をかけて強烈に宣伝する店ほど、実はおいしくない。そのお金があればいい仕入れや、お客さんに出す量に還元できるはずなのに、それをしないのは「集客→金もうけ」しか考えてないからさ。味なんか最初からどうでもいいってこと。 |
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5. 最後になにかありましたらお願いします。
うちのおばあさんがお世話になった寺島万里子先生(川口診療所創設者、在日の方々、
貧しい方々の医療に貢献された。)の紹介だといわれたからインタビューに応じたけど、普通はしないからね。基本的に取材は拒否ね。体裁だけの商売はしたくないし、中身の濃い商売をしたいから。お金があればお客さまに味や量として還元したいので、必要のない広告は一切しないです。それよりもまず、うちの肉を食べて味をみてください。焼肉の味も好みですから、うちの味が口にあわない方、それは仕方ないです。「うちの味はこうなんです」ただそれだけ。
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6.気になるお店の味は?
翌日、さっそくお邪魔してみた感想。 三代目の特製辛味噌風味の味付け大腸、ハチノスの味はまた食べたくなる、くせになるいい味。下ごしらえがきちんとされているので、独特の臭いも一切なく、ご飯がすすむ。豚のほほ肉の通称“ぺた焼”も歯ごたえのある、ぷるぷる、しゃきしゃきした口ざわりのなかに、味噌の味がしっとりしみた珍味。内臓、珍味焼好きの方にはぜひいってほしい川口の老舗だ。 |