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釜山の町を歩いていると、なんとなく心が落ち着くというか、あまり高くないせいぜい2階建ての家並みの小路を歩いてみていても昔の古きよき時代の日本的な郷愁を感じてしまう。それもそのはず、釜山の街は今も多くの日本家屋や改造されてはいるが元日本家屋だったに違いない建物が沢山残っているからだ。戦中戦後を体験した地元のお年寄りの話だと、日帝(植民地)時代には松島の岩南洞、富民洞、忠武洞、寶水洞、中央洞、大新洞、草梁洞など海が見える景色のよいところ、なんとなく海に近いところ、日本人学校のあるところに日本人が多く住んでいたそうだ。日本人達が海に近いところに好んで住んだのは、対岸の日本への深い郷愁からだろうか?

釜山の街でも有名な日本家屋が2つある。1つは日本の女学校があったという、寶水洞のムルコン食堂というお店で、アグチムの名店だ。建物は築70年ほどになる。元は日本の偉い軍属かお役人の家だったらしい。畳こそ今はなく板の間になってしまっているが、狭い急階段、床の間、廊下離れにあるトイレをみれば、瞬間的に「あっ、これは日本の昔の家だ」と肌で感じとれてしまう。店には不思議なここちよさとあたたかさがある。店主の話によると、「わたしは、50年前にこの家で生まれました。よくまぁ、今も残っていましたね。とても懐かしいです。」という初老の日本人が2年程前に訪ねてきたそうだ。ムルコン食堂の店主や他の釜山人に「日本人の家屋をそのまま使うことに抵抗はないのですか?」という質問をしてみたのだが、彼らは「過去の歴史は歴史として忘れてはいないのですが、釜山には釜山の街の歴史があり、その街の景観や味わいをなくしたくないのと、たとえそれが日本人が建てたものであっても、一般的に古いものには敬意をはらって大事にしていきたいのですよ。」という。寶水洞には日本の女学校があり、学生達の通学路にもなっていたため、今でも近くに「寶水洞書房通り」という古本屋街も残っている。神田の神保街をすごく小さくした感じだ。
もう1つは東莢別館という料亭で、東莢は釜山中心から電車で20分程度のところ。1200年の歴史ある旧都の温泉地だが日帝時代は日本人の保養地として別荘も多かったそうだ。東莢別館は1920年代に裕福な日本人の別荘として建てられ現在は韓国宮廷料理などを味わい、伝統舞踊をみることができる高級料亭として別格なあつかいだそう。
また現在のチャガルチ駅の北にある阮月洞のあやしい風俗地域は土地の古老に聞けば、日帝時代には緑町とよばれる遊郭地帯だったそうだ。
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